つい最近まで私は過去の過ちに罪悪感を抱いて生きていました。
そんな重荷から解放されたのは、インドを旅行していた昨年の春。
あるヨーガセンターで知り合ったインド人の友人と対話を続けて行くうちに、自分は決して好きで過ちを犯したのではなく、またその当時の状況に於いては私の出来る限りの選択をした事、そして、そんな失敗や過ちがあってこそ、今の自分があることに気づいたからです。
ラビーンドラナート・タゴールが言ったように、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの哲学や人生にはネガティブという言葉は存在しません。
失敗を祝福しなさい。例え1000回失敗したとしても、もう一度挑むのだ。
私は人生でたくさんの過ちを犯した。しかし、よく聞きなさい、これらの過ち無しでは今の私は無かったのだ。それゆえに、自分の犯した過ちに満足している。
私の言葉を誤解しないで欲しい、過ちを犯せと言っているのではない。自分の犯した過ちによって意気消沈するなと言っているのだ。
失敗を気にするな。失敗は必然であり、人生を彩るものだ。失敗の無い人生など考えられないだろう? 苦闘の無い人生など生きるに値しない。 そんな人生の何処に詩があるのだ?苦闘や過ちを気にするな。
嘘をつく牛など聞いた事が無い。しかし、牛は牛に過ぎず、人では無い。だから失敗を気にするな。
失敗や過ちこそが私たちの教師である。過ちを犯す者にのみ真実への道は開かれる。
木や石は過ちを犯さない、動物が自然界の法則から逸脱することはほとんど無い。それに比べ人間は過ちをおかしがちである。それでもこの地上で神となり得るのは人間のみである。
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